善正寺について
※当院の歴史につきまして、現在精査中です。随時修正してまいります。
◆起源
当院の歴史をさかのぼってみますと、西暦1234年(文暦元年)頃、真言宗の〔教俊〕(きょうしゅん)という僧が現・糸魚川市にある早川谷の砂場という山村において真言宗の精舎を建立し、「上宮山 宝寿院」(じょうぐうざん ほうじゅいん)と号し開山したことに始まります。以来、密教の霊場として数代を経ました。
◆浄土真宗への改宗
西暦1550年頃、上杉謙信とその子の景勝の家臣であった薗田太郎成家の末裔である薗田郷助成忠が宝寿院に出家して〔善正〕と名のり、一向専修の行者となりました。ちなみに薗田太郎成家は、平将門を討ったとされる藤原秀郷の末裔で、後に法然上人の元で出家し寺院を建立したと言われる人物です。
西暦1570年(元亀元年)、〔善正〕は織田信長と本願寺勢力の対立によって勃発した「石山合戦」に参戦し、西暦1580年(天正8年)に終結しました。本願寺第11世法主顕如上人は〔善正〕の忠勇を賞して法弟となし、本尊・寺号・自筆の六字名号等を与えました。これを機に、〔善正〕は改宗して浄土真宗となり、砂場の地に帰ると同時に堂宇を新たに建立し、「善正寺」と号して中興開宗の第1世となったのです。
◆二条家の輿入れ
西暦1826年(文政9年)頃、善正寺第12世〔亮清〕のとき、その子(のちの第13世)である〔琢清〕が京都二条家の孫〔中院利子〕を娶り、お輿入れとなりました。もともと善正寺は二条殿の祈願所となっていたとされていますが、その経緯については不明です。寺紋が「下がり藤二条紋」となっているのは、このお輿入れを機縁としているものと考えられます。
なお〔中院利子〕がお輿入れの際に京都から乗ってきたといわれる駕籠(かご)が、現在でも大事に保管されています。
「二条家のお輿入れ」のエピソードは、現在糸魚川の民話として残っています。このエピソードを含む糸魚川の民話については、市内の書店等で手に入れることができます。(→参考)
なお〔中院利子〕がお輿入れの際に京都から乗ってきたといわれる駕籠(かご)が、現在でも大事に保管されています。
「二条家のお輿入れ」のエピソードは、現在糸魚川の民話として残っています。このエピソードを含む糸魚川の民話については、市内の書店等で手に入れることができます。(→参考)
◆二度の再建
善正寺第8世〔祐清〕は、1690年(元禄3年)から10年の歳月をかけて、堂宇を200mほど移して新たに再建しました。以後約300年間、一度も天災に遇わずほとんど手も加えられない状態で平成の時代まで存続し、その歴史の長さから文化財的に大変貴重な建物となりました。
しかし、300年もの長い年月を風雪にさらされた建物は、損傷が蓄積され老朽しきっていました。山間部の過疎化も進み、夏場の茅の葺き替えや冬場の屋根の雪おろしができる人々も少なくなってきました。修繕・管理といった面の困難さから砂場の地で建物を維持することが大変難しい時代になっていたのです。そこで善正寺の移転再建計画が持ち上がったのです。
善正寺第19世〔修清〕によって再建が進められ、西暦1989年(平成元年)から5年の歳月をかけて現在の大和川の地へ移転しました。移転先の土地は田んぼでしたが、古代より地盤の安定した土地であったらしく、遺跡が発掘されていました。建設の際には、古い本堂の利用できる資材をなるべく利用するようにしました。旧庫裡の建物は、縁あってカー用品企業の「イエローハット」の宿泊用研修所として山口県に再建され、利用されています。旧太子堂は、上越市にあるお寺が火事で焼失した際に寄進しました。2009年(平成21年)には大和川の地で新しく太子堂の建設が行われました。ここまで実に20年の歳月となります。
日本の仏教は、聖徳太子(厩戸王)によって広められたとされており、日本の仏教においては聖徳太子への信仰も元来存在しています。宗祖親鸞聖人も聖徳太子に対する信仰を有していたことは、本人の著書からも明らかであります。聖徳太子は、数々の別名をもっており、上宮太子聖徳皇(じょうぐうたいししょうとくおう)とも呼ばれています。善正寺の山号である「上宮山」は、起源である「宝寿院」時代からついている山号であり、開祖〔教俊〕が聖徳太子の霊験をあらたかに感じとっていたからこそつけられた山号であると考えられます。善正寺に古来より存在する「太子堂」は、その聖徳太子の霊験をたたえ建立されたものであると言えるでしょう。
◆善正寺の聖徳太子像(木像)
善正寺の宝物に登録されている「太子像」は、聖徳太子自作とされていますが定かではありません。「善正寺」が建立された頃、春日山城の出城である不動山城が早川の地にありましたが、この出城にその太子像が祀られていたとされています。その出城が落城するとき、兵士が太子像を持ち出し、その途中で太子像が運びきれずに、偶然近くの善正寺門徒の民家に置き去りにしていったと伝えられています。太子像はそのご門徒から善正寺へと渡り、現在に至ると言われています。
この太子像は、顔立ちや衣服は16歳頃の姿と思われますが、合掌した姿をされています。全国各地に見られる太子像のうち、合掌した像というのは2歳の頃の姿のものが多く、また16歳頃の像では柄香炉を持った姿が多いようです。これらのいずれにも当てはまらないのは大変珍しいものと考えられます。
田沼玄蕃頭意明が一万石の大名に復活した1787年(天明7年)から36年間、頸城郡34ヶ村を領して、下早川の上出村に田沼の陣屋がありました。1823年(文政6年)、田沼の国替えによって陣屋門が善正寺に寄進され、以来、善正寺山門として平成の再建後も残されていました。しかし大変残念なことに、2004年(平成16年)の台風により倒壊・滅失し、現在は影も形もなくなってしまい、石段だけがひっそりと残っています。
「糸魚川ふるさとかるた」という郷土かるたの中に、「田沼の門の善正寺」という句があり、かつては糸魚川の郷土を表すものの1つであったことがうかがえます。
「糸魚川ふるさとかるた」という郷土かるたの中に、「田沼の門の善正寺」という句があり、かつては糸魚川の郷土を表すものの1つであったことがうかがえます。
◆旧善正寺のしだれ桜
二条家のお輿入れの際に持ち込まれたのではないかと伝えられる「しだれ桜」が砂場の旧善正寺跡にあります。もしそれが正しいとすれば、樹齢は約200年になると考えられます。糸魚川市の文化財に指定されています。毎年雪解けの頃(4月下旬)に見事な花を咲かせます。大和川の新しい土地にも株を切り分けて3~4株ほど植えてあります。
◆旧善正寺の大銀杏
しだれ桜と並んで存在感を示すのが大銀杏の木です。秋の黄色に染まった頃が見頃です。移転再建前までは多くの実をつけていましたが、近年ではあまり元気がないようです。やはり人が住まなくなって寂しいのでしょうか・・・。